晩年


「船頭小唄」のヒット後には「十五夜お月さん」の作詞などを手がけて、 次々とヒット作を作っていった。
1925年には「日本作歌協会」を設立し、 1928年には文部省仏教音楽会評議員となり、 1935年には日本民謡協会を再興、理事長になった。
 
「船頭小唄」が作られた年には地方民謡が作られ、 森垣次郎氏が野口雨情と中山晋平を誘って全国の民謡調査の旅に出た。
 
武蔵野市吉祥寺に住んで、妻つるとその間にできた7人の子女と静かに暮らしていた 東京・井の頭公園には童心居と雨情が名づけた詩作活動を行った書斎が今でも残っている。
 
しかしやがて戦争になり、雨情は東京から栃木県の鶴田へと疎開、 家族で農業をするなどして生活をした。
 
名門・野口家に生まれ、その後継者として 磯原の地に帰りたいという気持ちは十分にあったのだが、 戦争という帰るに帰れない事情があった。
疎開によって空襲の心配はなくなったものの、 食べ物ばかりでなく物資が足らない状況は続き、 やがて雨情は1945年63歳で永眠した。

野口雨情 
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(画像・ウィキペディアより)

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